イギリスと日本を往復する著者は、コロナ禍とウクライナ情勢を受けた日本の対応に危機感を覚えた。「鎖国」「自粛」「平和ボケ」……そういったキーワードで「わかったつもり」に陥っているメディア、専門家、国民に対する危機感だ。それは、両国の境界に位置するからこそ感受しえたものである。従来の日本文化論的思考では、「空気」の読み合いとか「同調圧力」といった言葉で説明・納得し、そこで思考停止してしまう。そのことで、議論が中途半端に終わったり、対立する議論の接点をとことん求めたりしないまま、白か黒かの素朴な二項対立に終始してしまう。 まずは、私たちの「思考の習性(クセ)」を知ることから始めなければならない。著者はかつて「ゆとり教育」論争や、最近ではコロナ禍の九月入学論議において、実証的なデータ分析を駆使して一石を投じた。今回は機内濃厚接触者になった当事者としての体験と「言説データ」を携えて、ニッポンの宿年の課題を鋭く検証する。
コロナ禍での現代版鎖国。 自粛によるコロナ生活。筆者の日本でのコロナ対策の隔離生活が詳細にわかったのは興味深いと感じました。 海外留学生の再入国を認めないなど、海外との違いは初めて知りました。 自粛というと自ら進んで行動する様に思えるけど、同調圧力によるものというのは、自らの思考を止めてしまうことになる。 長い歴史の中で、権利は自ら得たものでなく、上から与えられたものという印象が大きいのは、明治維新然り、戦前また、戦後の体制が、実は今も続いているのではと思わずにはいられません。反抗心はあっても、上が決めたことに従順な気がします。 同調圧力に弱い日本人かもしれませんが、欧米諸国の様に、国民が分断される姿もまた、悲しいので、何が正解なのか。これもまたアンビバレンスでしょうか。
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